1902 3月13日シレジア地方カットヴィッツ(現ポーランド領カットヴィッツ)に生まれる。
1921 社会への服従心を身につけさせようとした父によって、炭鉱と製鉄所で働かされる。
     しかし父の意図に反して、この経験をきっかけにマルクス、レーニンの著作を読み社会主義思想に接近する。
1923 社会に有用な技術を学ばせようという父の意向で、ベルリン工業大学に入学。
1924 大学を中退。
1926 生活の為に商業デザイナーとして独立、ベルリン=カールスホルストに事務所を持つ。
1928 病弱だが、若く魅力的なマルガレーテと知り合い、最初の幸福な結婚をする。
1933 政権を獲得したナチスに抗議するため、国家の利益につながる一切の営業活動を放棄する。
     年末に、最初の人形制作に着手する。
1934 自らの序文を添えた人形の写真集「人形」をカールスルーエで自費出版する。
     ソルボンヌ大学に留学したウルスラが持ち込んだ、この本をパリのシュルレアリストたちが絶賛。
人形の写真は「ミノトール」誌第6号に掲載される。
1935 ポール・エリュアールの詩「アップリケ」、ベルメールとマン・レイの写真を添えて「ミノトール」誌第7号に掲載。
新たな人形制作を開始。プリッツェルとともに訪れた、カイザー・フリードリヒ美術館に展示されていた
デューラー派の人形からヒントを得て「球体関節」を採用。
1936 ロベール・ヴァランセの訳による「人形」仏語版、GMLより刊行。
1938 2月6日、妻マルガレーテが結核で死亡。ナチスの脅威を避けてパリでシュルレアリズム運動に参加。
1939 球体関節人形に想を得たエリュアールの詩「あいまい遊戯・人形」、人形の写真とともに「メッサージュ」誌に掲載。
詩人ジョルジュ・ユニェと共同制作した挿絵入り詩集「枝状に刻み込まれた流し目」、ジャンヌ・ピュシェより刊行。
第二次大戦が始まり、敵国人としてマックス・エルンストら芸術家の友人とともにエクス・アン・プロヴァンスのミルの収容所に監禁される。
1942 身の安全のために仏国籍を得る目的でフランス人女性マルセル・シュテールと再婚。翌年、双子の娘、ドリアンヌ、ベアトリス誕生。
この結婚は完全な失敗だったが(相手の女性は品行が悪く、後々までハンスを苦しめた)娘、特にドリアンヌを熱愛する。
1945 妻と別離。(離婚成立は翌年)、双子の娘と生き別れになる。
1946 戦時中は音信不通となっていたベルリンの家族と連絡をとり、父が1941年に死亡していたこと、
母とウルスラは健在、弟がロシアで捕虜になっていること(1948年に釈放)などをはじめて知る。
パリでノラ・ミトラニと出会い、1947年から48年にかけてトゥールズで同棲。ただし二人の関係は1950年には終わっている。
1947 パリ、マーグ画廊で行われたシュルレアリズム展に協力。
1949 創作活動に有利なパリに移り、ムフタール街に居を構える。球体関節人形の着色写真とエリュアールの詩(あいまい遊戯、人形)
を収録した「人形の遊戯」、ハンス自身の序文を添えてプルミエールより刊行。
1950 最初の本格的な作品集をパリで自費出版。ノラ・ミトラニのベルメール論(未完)、
ピエール・ド・マンディアルグ、イヴ・ポヌフォア他のテキストが収録される。
1952 ジャン・ジャック・ポーヴェールの画廊で個展。
1953 戦後初めてベルリンに滞在。母国では初の本格的な個展をシュプリンガー画廊で開く。
     ウニカ・チュルンと出会い、彼女を伴ってパリへ戻り、ムフタール街で同棲を始める。
1957 「イマージュの解剖学」、テラン・ヴァーグより刊行。
1958 ウニカ・チュルンの緊縛写真を撮影。
1963 ダニエル・コルディエ画廊で個展。
1966 ドゥノエルよりデッサン集を刊行。版画1点(官能の移転)付。
1967 娘ドリアンヌと21年振りの再会を果たす。
1968 「道徳小論」、ジョルジュ・ヴィザーより刊行。
1969 脳卒中で倒れ入院、左半身が麻痺。後、作品の版画化作業はセシル・ドゥが行う。
1970 ウニカ・チュルン、アパルトマンの窓より投身自殺。
1975 2月23日、死亡。72歳。









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